横浜港振興協会は1953年、横浜市及び横浜商工会議所の呼びかけにより、


社団法人として設立され、2023年7月に創立70周年を迎えます。


港の理解をより一層深めていただくこと、港をより身近な存在としていただくことを目指し、各種事業を展開し、


ミナト町ヨコハマの交流がしっかりできるよう邁進してまいります。

1953年〜1967年

最初は要請・要望活動から

サンフランシスコ講和条約の調印から2年、日本の国際社会復帰がいよいよ動き始めます。となれば、次なる課題は「貿易立国」。
産業の振興に併せて、貿易の最先端を担う港湾の役割が重要です。
そんな1958(昭和28)年7月、社団法人横浜港振興協会が設立されました。戦前にも増して、港ヨコハマの機能を充実させなくてはなりません。
海運、倉庫、港湾運送、陸運、貿易、観光などさまざまな業界の大同団結を図りながら、この課題と取り組みます。

しかし、当時の横浜港は港湾施設の70%が依然として米軍の接収体制下にあり、戦後を引きずっている状態でした。振興協会が最初に取り組んだのも、現在の新港ふ頭、接収中はセンターピアと呼ばれていた公共ふ頭の返還促進運動です。
協会設立のこの年、幸いにも高島、山内両ふ頭に続いてサウスピアこと大さん橋の接収解除も実現、市中では最初の国際仮装行列が開催されました。
日本のテレビ放送が始まった年、朝鮮戦争の休戦交渉がまとまった年でもありました。

要請・要望活動の筆頭には、接収解除の促進がありましたが、そのほかでも港湾荷役の機械化、臨港鉄道の整備改善など旧体制からの離脱を図ろうとする動きが目立ちます。
陳情書や要望書の提出先も、外務省、運輸省、農林省はもとより旧国鉄本社、在日米軍港湾司令部など広範囲に及んでいます。
港湾管理者となった横浜市への要望はもとより、港湾労働者用住宅の建設では神奈川県にも働きかけています。
協会設立から3年後、この国の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言して、技術革新を軸に日本経済が新しい成長の時代に突入しようとしていることを予感させます。昭和30年代(1955~1964)に入ると、横浜港でも経済や貿易の活況に対して、港湾施設、公共施設の不足が目立つようになります。
ふ頭も、倉庫も、港背後の輸送網も、隘路ばかり。船席の空きを待つ月末の沖待ち船ラッシュや港頭滞貨の山が深刻な問題となりました。
こうして次なる課題、港湾施設の整備拡充が、横浜港喫緊の課題として浮上してきます。内防波堤、外防波と2本のアームの中に収まっていた横浜港がその外側へ大きく膨らんでゆくほかはなくなったのです。
山下ふ頭の整備くらいではとても追いつかず、本牧ふ頭、大黒ふ頭の早期着工が求められます。京浜工業地帯の範囲も、川崎、鶴見、神奈川どころか根岸湾や金沢地先の埋め立てまでをにらんで考える時代へ入っていきました。

1953年-1967年の横浜港
1953年-1967年の横浜港
1953年-1967年の横浜港
1953年-1967年の横浜港
1968年〜1982年

港湾施設増強の時代へ

東京オリンピックを終えて昭和40年代(1965~1974)に入ったあたりから、世界中の物流に大変革がもたらされますコンテナの登場です。

振興協会でも1966(昭和41)年にはコンテナ輸送問題の委員会が設置され、海運界の変革に対応してコンテナ専用ふ頭やコンテナターミナルの整備に着手する必要がまとめられました。その2年後、1968(昭和43)年の暮れには早くもフルコンテナ船の第一船サンフアン号が入ってきます。しかもこの年、日本の国民総生産はついに西ドイツを抜いて、米国に次ぐ世界第2位の規模に膨らみます。

コンテナの登場は、港の景観まで一変させました。
積荷が何なのか、目視では分かりません。港湾労働の現場や背後地との輸送連絡にも、さまざまな影響が現れます。1969年には、港湾労働者のための総合職業訓練所設置を求める陳情書が労働大臣あてに提出されました。
まだベイブリッジがなかった時代、中区内の幹線街路にはコンテナ街道の異名がつけられ、かつては港の全域で活躍していたはしけが減少に転じました。

1960(昭和35)年以後、協会では他港の港湾施設も参考にしようと毎年国内の主要港に視察団を派遣してきましたが、1971(昭和46)年には港湾の実際を海外に学ぶ欧州港湾事情視察団を送り出しています。
本牧ふ頭、大黒ふ頭などコンテナへの対応施設が整備される一方で、大さん橋では国際船客ターミナルへの衣替えが進みます。
その客船の世界でも、大転換が始まっていました。
航空機の発達で、いわゆるライナー、定期航路を往来する客船は次第に減り始め、むしろ〝ご用とお急ぎ〟の旅行客は空路に譲って、海をゆく客船は旅と船上生活を同時に愉しむクルーズ客船の時代へ移行を始めます。
ホノルル経由でシアトル~横浜間を往復していた氷川丸の引退に象徴されるように、かつて横浜港を賑わせた北米航路、南米航路、欧州航路、ナホトカ航路などの定期客船が次々と姿を消していきました。
代わって港見物の市民に大人気を博したのが、英国が誇る世界一周の豪華客船クイーン・エリザベス2世号(略してQE2)の登場。
同船が初入港した1975(昭和50)年には大さん橋へ4日間停泊する間、一目この船を見ようと52万人もの見物客が詰めかけました。
日本にも、本格的な海外旅行の時代が到来していました。

1968年〜1982年の横浜港
1968年〜1982年の横浜港
1968年〜1982年の横浜港
1968年〜1982年の横浜港
1983年〜2002年

施設管理の運営増える

長らく横浜商工会議所の中に置かれてきた協会事務局が、創立30周年を迎える年1983(昭和58)年の4月から産業貿易センター6階に移って独立します。これに前後して横浜市からの職員派遣が実現、協会独自の職員も増えて、港湾施設の管理運営を任される時代が始まりました。

最初に手がけたのが、大さん橋船客ターミナルの運営で、入場料を取る時期、取らない時期といろいろありましたが、ここでは駐車場やホールの運営にも携わります。折りから1989(平成元)年の横浜市制100周年に際しては、みなとみらい地区を中心に横浜博「YES’89」が開催され、前述のクイーン・エリザベス2世号がホテル・シップとして70日間、大さん橋へ横付けされました。

また振興協会を含む地元が長年待望してきた横浜ベイブリッジがこの年の秋開通、みなとみらい地区の整備と併せて横浜港も、平成新時代に突入していきます。

こうした流れの中で、平成元年にはベイブリッジに付随するスカイウォーク、同3年にはみなとみらい地区のぷかりさん橋、同5年には八景島緑地部分の管理運営なども手がけるようになり、最盛時には協会職員が50名を越える活況を呈しました。
とりわけ好評だったのが、平成元年から始めた海事広報艇「はまどり」の運航業務。小学生の社会科学習も含め、市民に港の実際を見てもらうPR活動となりました。年間3万人近い市民を案内しましたが、平成22年2月をもって、同船の売却により業務を終えました。
一方2003(平成15)年の地方自治法改正によって「指定管理者制度」が制定され、横浜市港湾局も2006(平成18年)年から導入しました。民間企業とのJVで指定管理者として管理運営業務を行いましたが、スカイウォークは2006(平成18)年3月、大さん橋国際客船ターミナル、ぷかりさん橋、八景島については2011(平成23年)年3月に業務を終了しました。

1983年〜2002年の横浜港
1983年〜2002年の横浜港
1983年〜2002年の横浜港
1983年〜2002年の横浜港
2003年〜現在

港を市民につなぐ働き

2009(平成21)年、横浜は開港150周年を迎えます。それに先立って振興協会もさまざまな観点から150周年記念事業の検討を進めました。先人たちの大きな足跡の上に現在の横浜港が存在することを踏まえて、この国の近代発展史の中、ミナト横浜が担ってきた役割を市民とともに再認識する方向を目指しました。

中区の開港記念会館で2006(平成18)年から4年がかりで連続15 回の横浜港講演会を開催するほか、一世紀半にわたるミナトの歩みを人物史の側面からまとめる、横浜港物語「みなとびとの記」、写真集「いまも百舟百千舟」の記念出版も進めました。
折りから、横浜港発祥の地とも申すべき中区山下町地先に150周年を記念する「象の鼻パーク」も完成、大型客船の入港で賑わう大さん橋のたたずまいとともに、ミナト横浜の新しい景観が誕生しています。

また横浜港の最も沖合いに位置する南本牧ふ頭では、現在水深20メートルとわが国では最大スケールのコンテナふ頭が建設中です。開港150周年から200周年へ、ミナト横浜も新しい年輪を刻み始めました。
2011(平成23)年から始めたふ頭内をバスで案内する「港湾施設見学会」、地域に出張する「出前講座」、5回連続で行う「みなと知っ得講座」、「区民まつりでのPR」の諸業務は市民に港をもっと知ってもらい、その役割、重要性を理解してもらうために展開しています。今後の振興協会の事業の中心となるものです。

60年前、横浜商工会議所の会頭をトップに始動した振興協会ですが、その後会長はしばらく横浜市長の時代を経て、現在は浜っ子民間人を会長に据える変遷を見せております。この4月から一般社団法人としてスタートしましたが、市民との強い結びつきを志向しながら、一層横浜港の発展に資する団体を目指してまいります。